2月3日は福澤諭吉先生の命日です(22時50分に亡くなられました。合掌)。慶應義塾を創設した福澤諭吉先生はどんな人生を歩んだのでしょうか。
詳しくは『福翁自伝』でも読んでもらうとして、ざっくりまとめてみました。
現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)
----------
福澤諭吉(1835 - 1901)
1835(天保5)年、父(福澤百助)の勤務先、中津藩蔵屋敷(大阪)で5人兄弟の末っ子(次男)として生まれる。 生後18か月で父が死去。一家は中津藩(大分)に戻り、貧しい下級武士だった福澤家を母(於順)が内職で支えた(母親は迷信を信じない合理的な人で、とても温和な性格だったようだ)。
福澤諭吉が本格的に勉強し始めたのが14歳の頃(意外に遅い!)。そこから猛勉強して、数年後には漢学者の前座にまで成長した。黒船来航(1853年)をきっかけに、砲術家を育てたいという気運が中津藩でも高まり、兄(三之助)のすすめで長崎で遊学することに(砲術を学ぶにはオランダ語の翻訳が必要だった)。そこで必死に蘭学を学び頭角を表わすが、上級武士の妬みで長崎を去ることに。今度は江戸に出て蘭学を学ぼうするが、地元に帰ってきてほしい兄の説得で大坂にある緒方洪庵の「適塾」に入塾。22歳で塾頭を務める。
1858(安政5)年、藩命で江戸へ呼ばれた福澤は、蘭学塾(慶應義塾の起源)を開設。翌年、開港されたばかりの横浜にオランダ語の実力を試しに行くが、外国人に全く通じず愕然。 世界の標準語が英語であることを知る。めげることなく辞書をたよりに独学で英語を学び、1860(万延元)年の冬、従僕として軍艦咸臨丸で渡米。帰国後、蘭学塾を英語中心の塾に変え、1861(文久元)年にはヨーロッパ、1867(慶応3)年には再びアメリカへ。それらの海外渡航の経験をまとめた『西洋事情』を出版(1866年)する。
1872(明治5)年、『学問のすゝめ』を発表。
【参考】
■独立自尊の人「福澤諭吉」
■福澤諭吉年譜
■福澤諭吉と慶應義塾
---------- 村田蔵六(大村益次郎)や勝海舟との確執、大隈重信(第8・17代内閣総理大臣/早稲田大学の創設者)との友情、楠本イネ(シーボルトの娘。その娘の高子は銀河鉄道999のメーテルのモデルだとか)や手塚良仙(手塚治虫の曾祖父。漫画『陽だまりの樹
』で楽しめます)とのエピソードなど、面白い話は山ほどありますが、切りがないのでこの辺でやめておきます。
『学問のすゝめ』のすすめ
『学問のすゝめ』は、あまりにも有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という一文(アメリカ独立宣言の一節を意訳したものらしい)で始まりますが、実際に読んでみると、生まれながらの平等を説いたものではないです。むしろ逆。生まれ持った権利や一般的な道理としては平等だけど、現実の社会では、貧富や身分、強さや弱さ、頭の良し悪しなどに大きな差がある。それを乗り越えるためにこそ「学問」を学ぶ必要があることを説いています。
慶應通信に入学すると『学問のすゝめ』と『福翁自伝』が配本されるみたいですが(初回)、現代語訳なら『学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)』 が読みやすいです。文語体でも苦にせず読める方は、青空文庫で『学問のすすめ』を読むことができます。
慶應通信に入学すると『学問のすゝめ』と『福翁自伝』が配本されるみたいですが(初回)、現代語訳なら『学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)』 が読みやすいです。文語体でも苦にせず読める方は、青空文庫で『学問のすすめ』を読むことができます。
学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)
【参考】
■福沢諭吉 学問のすすめ - 青空文庫
福澤諭吉先生の小ネタ
ウィキペディア(Wikipedia)に書いてある福澤諭吉に関する小ネタ話としては、
- 会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した(借方貸方という語は福澤の訳)
- 日本に近代保険制度を紹介した
- 「経済」「文明開化」「動物園」また「演説」といった和製漢語を数多く作り、「自由」という言葉も著書『西洋事情』によって世間に広まった
- 慶應だけでなく、専修大学や一橋大学、東京大学医科学研究所の創設にも尽力した
↓ 通信大学生ブログの人気ランキング